灰色の塔1-4

4.
 ああ、本当に久しぶりだ。
 肌を流れ落ちるこそばゆいお湯の感触を楽しみながら、藍は久しぶりに笑みを浮かべていた。
 塔の内部には風呂という概念はない。水は生命の維持に不可欠なためか塔のあちこちには小さな泉が存在するが、それは水浴びできるほどの大きさではないので大抵の人は身体が汚れても水で濡らしたタオルで身体の汚れをふき取る程度で済ませている。水浴びのような行為ができるほどの大きさの泉は塔の頂上に一つあるだけだ。そして、そこでさえこの浴室のように大量のお湯で身体を洗うなんて真似はできない。
 シャワーと言うらしいお湯を雨のように降らせる道具も、スイッチ一つで水をお湯にする装置も頂上にはない。聞いた話では、外界のある都市国家で作られた最新式の装置らしい。どうやって手に入れたかは知らないが、他の部屋でまだ見た事がないので相当珍しい物だという事がわかる。
 知らなければ我慢できるが、贅沢を一度知ってしまうと、頂上に存在する広大な泉も、たまに降る神秘的な雨も色褪せて見えてしまう。

「……石鹸」

 確かこれで身体の汚れを落とすんだったはず……

 容器に置かれている白い塊を手に取り、軽く擦ると食べ物とはまた違ったいい匂いが鼻腔を擽った。

 石鹸は塔内部で作られたものではなく、外界からの支給品。はっきり言って需要はあまりない。ただ匂いのいいだけの塊を常に持ち歩く余裕はないし、身体を洗う事などほとんどないため意味も無いためだ。濡れタオルで身体を拭くだけの者達にとってただ邪魔なだけだった。ここに来てちょっと石鹸を気に入った藍でも手を出さないだろう。いわば石鹸は一種の嗜好品なのだ。

「いい……香り」

 軽くあわ立て、手の平で身体を擦る。

 人類最高クラスの戦力を持つ藍だが、そのスキルの齎す効果は身体能力の大幅補正である。決して筋肉がつくわけではなく、対戦闘用スキルであるが故に戦闘に適した形状が常に保たれるものの、外見的には同年代の華奢な女の子と変わらない。
 輝かんばかりの白い肌は、ほとんど日に当たらないが故。それでも病弱に見えないのは、藍が生粋の戦人である証明とも言えた。
 女にしては高めの身長。傷一つない身体は外の者が見たら皆魅了されるほどに美しい。やぼったい格好をしているのが勿体無いと誰もが口を揃えて言うだろう。しかし、そんな事は本人からしたら何の関係もなかった。
 この塔の中には、大まかに分けると三種類の人間がいる、と藍の知る中では最も知識を持つ赤い扉の主は言う。
 後天的にハイスキルを得た者。先天的にハイスキルを持つ者。そしてハイスキルを持っている振りをして入り込んでくる者。
 生まれつきハイスキルを持っていた者は、物心ついた頃から塔の中で生活している事が多い。ハイスキル持ちとは外界では忌むべき存在として認知されているからだ。そして、藍もその先天的にハイスキルを持って生まれた者のうちの一人だった。
 物心がついた頃からずっと塔の中で生活しており、もっとも過去の記憶は地下迷宮で自分の体長の十倍近くある獣を素手で切り裂いている光景。それ以前も生きていたはずだし、生まれた時は外界にいたはずだけどその時の記憶はほとんど残っていない。当時は名前すらなかったくらいだ。そして、その事に疑問すら抱いた事がなかった。塔では他人と出会う事はほとんどない。客観的に見て自分がどう評価されるかに興味を抱かなかったとしてもやむを得ないだろう。

 手早く全身の汚れを落とすと、シャワーのスイッチを切り、ゆっくりと湯船に身を沈めた。
 
 うん……やっぱり……悪くない……な

 重厚な樫のテーブルも、植物操作系の能力者に作ってもらったという菜園も、様々な本が納められた書庫も、小さなボタンを一つ押すだけで火が灯る便利な調理器具も、塔の入り口と地下迷宮の直前、そして頂上に直結するワープポートも――赤い扉の部屋にある物は何もかも便利で快適な物ばかりだったが、ことさらにかけてこの浴室を藍は羨ましかった。自分の部屋に作れるなら作りたいくらいだが、複数の能力者や外界の技術をふんだんに使ったこの装置を取り付けるのは不可能だ。また、滅多に帰れないのに作ったって意味が――

 熱がじんわりと藍の身体を染み渡っていく。
 ぼんやりとした目つきで、天井を見つめる。

 何か……お礼でも……したい……けど……

 つま先から疲れが抜けていくかのような倦怠感と感じつつ頭を働かせるが、何のお礼も思いつかなかった。

 藍の長所は戦闘能力や力仕事だ。だが、その長所を生かせる仕事がこの地にはほとんどない。
 迷宮に潜って獲物を狩って来ることくらいはできるが、その程度の事、この塔に住むものならほとんどできる。知識系のハイスキルを持つ黎自身もできるだろうし、他の能力者もできるだろう。その事を藍はよく知っている。

「むー……不……覚」

 おまけに藍には獲物を狩ってもここに正確に持ち帰ることができない。今回ここに偶然たどり着いたのが僥倖だったのだ。実際藍が前にここに紛れ込んだのは一月ほど前だった。それでは辿り付く前に肉が腐ってしまう。

 難しい……参った……なぁ

 本人は礼などいらないと言っているが、そう言われると是が非でもお礼をしたくなるのが人間の心理。それはたとえ何もしたくなくなるほど無気力な状態にあっても変わらない。

 右大腿部にある五芒星の形を模した紋章を撫でる。ハイスキル能力者が外界で"星持ち"と呼ばれる由縁。星の形をしたハイスキル能力者特有の聖痕を。物心がついてからつい最近まで、自分の能力を邪魔に思ったことはないが、ここ最近では"何か与える事ができる能力だったら"と無駄なIFを考える事も多くなった。

「ま……いっか」

 どうせ、これは慈善事業なのだ。いつか黎が困っている時に助けになるくらいでいいだろう。
 後は……セックス?

「んー……また……後で」

 どのような行為を指すかは藍も知っている。この塔に住むものの数少ない娯楽の一つだからだ。閉鎖された空間であっても、生物の三大欲求の一つは大きな要素を締める。
 だが、実際に体験した事はないし、その覚悟もない。
 力ずくで藍にその行為を強制できる存在はこの塔内部でもそう多くないし、それは生まれてまもない頃からこの塔に住む藍にとってある意味で必然であった。

 嫌では……ない……かな。怖いけど。

 赤の他人に身を任せるよりはよほどいい。何より藍と繋がっているのは黎くらいだ。後はぎりぎり顔見知りと言ってもいい存在が数人だけ。

 湯船の中で藍はしばらく唸っていたが、やがて考えるのも無駄と悟った。少なくとも、今はダメだ。怖い。強く求められたら吝かではないが、黎は強くそれを求めない。それに、驚異的な防御力を誇る藍にそのような行為が可能かどうか――

 ドアの向こうから何かいい匂いがする。

 考えるのをやめ、湯船から身を起こすと、藍は雫が床をびしゃびしゃにするのも構わずに扉を開けた。

「む……」

 顔にぶつけられた厚手のタオルと着替え。眼を白黒させる藍に、黎は大きなため息と共に言った。

「服着ろ。身体拭け。何度言ったら分かるんだ」

「……うぃ」
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