第七話:灰色の塔

7.

「まぁ……いいや……」

 あれは何と言ったか。
 大きさだけなら藍の体長を遥かに超える毛玉を見てゆっくりと思考する。
 黎は、まるでソファにでも座っているかのようにその生き物の上で、そのふさふさとした尻尾に包丁を当てている。

 藍は自分が頭がいいほうじゃない事は知っている。
 何せ、物心ついた頃から塔の中に住み着いているのだ。外の世界で教育を当然の義務として、権利として享受してきた者たちと比べて、知識があるわけがない。藍の記憶の中に塔以外の情報は、たった一つ。かつての自分の家族だと思われる妙齢の女性と、黒っぽい服に光る飾りをつけた厳しい表情の男性の姿だけだ。
 だが、教育を受けていないという事はは記憶力が悪いという事を指してはいない。知らない事は覚えられないし、最低限の知識がないと予測すら立てられない。だから、その生き物が外で言う"犬"に似ていることも分からなかったし、もちろん当然それが魔族の一種だという事も知らなかった。藍の中に存在する知識は全て塔の中で入手したものだ。
 それでも、藍にはその姿に見覚えがあった。塔の外の事はたまに遭遇する他者から聞きかじった程度の事しか知らないが、半生以上生活している塔の中の事は経験として知っている。そして、それはただ無為に生きていくだけなら行く必要もない地下の迷宮の中の事にまで及んでいた。
 そこは、藍にとって狩り場であり訓練場であり、出会いの場であり、そして家でもある。
 中に生息している本来魔物と呼ばれる生き物は藍にとって敵と呼べるほど有害でなく、逆にそれらは藍にとって自らが持つ数少ない――当然眼の前にいる赤き扉の主とは比べるべくもない――紛れもない知識だった。

「とっとと服着れ」

「…………あ」

 顔に当たる柔らかい布の感触。
 いつも通りの風景。
 いつも以上に緩慢な動作で袖に腕を通そうとした瞬間、藍はその存在に思い当たった。
 四足歩行。こげ茶色の毛。象牙色の鋭い牙。自分の頭を噛み砕いてしまいそうなほど巨大な顎。そしてピンと立った尻尾。
 回廊の地下深くで見かけた誇り高き獣
 確か他の住人に教えられたその生き物の名は――

「……わんわんか」

「…………」

 得意気な表情で自分の持つ数少ない知識を胸を張って言葉に出した藍。
 その言葉に返ってきたのは、藍の予想に反して、何を言っているのか分からないという冷ややかな視線と居心地の悪い沈黙だった。

「……ん?」

 数秒が経過。
 ようやく藍は自分に向けられた視線に込められた感情に気づいた。
 主――御崎黎が鏡原藍という少女の全てを理解しているように、鏡原藍という少女もまた御崎黎という少年の行動を知っている。
 本来なら、たとえそれが黎から問われた物ではなかったとしても、藍が"正解"を出したならその少年はまず間違いなく褒めてくれるはずだ。
 少なくとも、三年ほど前藍が初めて黎と出会ったその時――文字と言葉を教えてもらったその時、黎は野性の獣のような少女を手なずけるのにそのような教育方針を取っていた。


 まるで犬に芸でも教えるかのように

 もちろんそれを藍が理解しているわけがないが。

「……何か……違う?」

「んー……」

 珍しくどこか不安気なその言葉に、黎は一瞬目を瞑りため息をついた。

「色々違うけど説明するの面倒だからそれでいいか。どうせお前に取っちゃ犬も魔物も魔族も皆"愛玩獲物"みたいなものだからな。しかし……遊ばれてるなぁ。いくらなんでも適当すぎる」

 一瞬視線を下に降ろす。
 ぎらぎら光る魔獣の赤の眼は、何か困惑しているかのような視線を黎と合わせる。

「わんわんグレートだ」

「がるるる「伏せッ!」ッぁ!」

 咆哮を上げかけた獣。
 だがその抗議めいた唸りもその尻尾に包丁を僅かにのめり込ませた瞬間に収束する。
 藍は黎の答えを聞いて、自分の記憶に僅かに知識を加えた。

 なるほど……わんわんグレート……か。確か……グレートは凄いって意味だ。そういわれてみれば以前見たわんわんよりも体長が大きいしなんていうか雰囲気が剣呑な気がする。

 藍にとって、黎の言葉は世界の誰よりも正しい。それは藍にとってだけでなくこの塔の住人で黎の事を知る全ての者が大小はあれ認める所で、たとえ嘗て回廊の地下で遭遇した犬型の魔物に『白狼』という正式名称があったとしても――そんな事は藍の知ったところではない。『回廊』に生息する魔物は外の世界に存在する魔物も一回りも二回りもレベルが高く、外界では滅多に御目に掛かる存在ではない。そして、『回廊』の魔物の中にはまだ人類から正式に名前を与えられていない者すら多く存在する。名前の正誤など塔の住人達は小指の先ほども気にはしない。
 黎がそれを『わんわん』と言えば、それが動物でも魔物でも魔族でも藍にとってはただの『わんわん』となる。たとえその名称が、嘗て遭遇した住人が何の意味もなくただ暇だったからだと言う理由でジョークの一つとして藍に教えたものであり、そして黎が完全にYESと答えたわけではなかったとしても。

 そんな事は、小さな世界に生きるものにとってどうでもいいことだった。

「ん……そういえば……ご飯は?」

 しばらくして、食欲が巨大な犬への好奇心に勝る。ようやく、藍は先程までに匂っていた美味しそうな香りが今はほとんど感じられない事に気づいた。
 不思議そうな顔をして、いつも食事を取る机を見る藍。空っぽの皿の乗った机に、どこか悲哀に満ちた表情を作る。それは、藍が今日この部屋に入って初めて見せたはっきりと分かる感情だった。

「……まさか……私……食べた?」

「いやいやいやいや。食ったかどうかくらい覚えているだろ。そもそも今風呂からあがったばかりだろ」

「……そう……」

「そうだ。……これ任せた」

 藍がなんともいえない感情に心を浸し、泣き出しそうなった瞬間、黎は足元の獣を開放した。
 藍の精神は非常に脆い。それは、出会った時から黎が知っていたことだ。ただの冗談で、わずかに思い通りにいかないだけで、いとも容易く感情を崩し、心の中で泣く。たった一人で塔の中を生き続けた覇者の、それが真実の姿だといってもいい。黎と言う偽物の味方を得て、確実に藍は弱くなった。

 そして黎は、そんな藍の表情の変化を見るのが好きだった。他者からの評価はすこぶる高いが、黎の性根は藍や他の星持ち達と比べても圧倒的にねじ曲がっている。今までそれが数人にしかバレていないのは、ただそれを隠す術に長けているからだ。だから、一言優しい言葉、気遣う言葉、もしくは真実を話すだけで藍の感情を、機嫌を元に戻せるとわかっているのに、あえてそれをしない。黎は感情を忘れるほどの事象を与えるという真逆の方法をとった。

 魔性が戦神に攻撃を仕掛ける。

 突然訪れた大きな隙。それを、賢朗なる魔獣たるワードッグが見逃すわけがない。
 地に伏せた状態から一瞬にして、筋肉が収縮し、強靭なバネの力を借りて巨大な身を宙に踊らせる。その対象は、今まで自分を押さえつけていた黎ではなく、たまたま目の前にいた藍だ。
 今まで弱点を抑えられていた相手と、無防備に見える相手。刹那の一瞬でワードッグが選択したのは後者だった。運が悪かったのは、その無防備に見える相手が今までワードッグ自身があったことのある生き物の中で一番強い生物だったことだろう。野生の本能は押さえつけられていた時からその事実を察知し、警鐘を鳴らし続けていたが、誰が思うだろうか。その恐怖が、今まさに自分の弱点に刃を当てている者に対してではなく、眼前の華奢な少女に対してのものだなどと。

 強力な魔力に裏打ちされた強靭な脚による踏み込みは、瞬間速度だけなら音速に近い速度での突撃を許す。
 先程までなんとか耐えていた絨毯はその衝撃に耐えきれず、鋼鉄で出来ている床ごと陥没し、黎は衝撃でダメージを受けないように開放と同時に後ろに下がる。
 ただの体当たりでも、百キロ近い質量によるものなら、話が違う。並の生き物なら衝突した瞬間肉体全体を骨も肉も問わず破壊され、水風船が割れるかのように肉体は一瞬で弾けその形をなくしていただろう。
 しかし、次の瞬間魔獣を襲ったのは、全く予想もしていなかった光景だった。

「ん……うる……さい」

 獣は混乱する。一体何が起こったのか。先程の自分を捉えた大男の時のように不思議な力を使われたでもない。弱点を抑えられたわけでもない。
 弱肉強食。獣の藍の力の差は決定的だった。無造作に差し出された白い右腕。獣の決死の攻撃は、ただそれだけの行為で阻まれていた。

 一瞬遅れて、大きなくぐもった音が響く。同時に、獣の意識は闇に沈んでいった。ちょうどワードッグの頭蓋を抑えた腕。わずかも後退せずにその巨体を軽々受け止めた藍。先程までの莫大な運動エネルギーは当然ながら襲撃者自身にも反射する。さしもの頑丈なワードッグの肉体も、その衝撃には耐えきれない。頭蓋を破壊されることさえなかったものの、意識を喪失させるにそのダメージは十分だった。

 無造作に落ちる巨体。透明な瞳でそれを見下す藍に、強敵に出会ったという感覚も勝利したという陶酔も何もない。

 純粋に腕一本で魔獣を止める。

 塔の覇者は、今日も相も変わらず。

「ご飯……」

「わかったから。座って待ってろ」

「……うぃ」

 存在するのは、やる気なさげに指示に従う一人の少女の姿だけだった。
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